2005年 07月 04日
村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」三部作
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村上春樹「ねじまき鳥クロニクル」(新潮文庫)
〈第1部〉泥棒かささぎ編・〈第2部〉予言する鳥編・〈第3部〉鳥刺し男編
本は読んだ人の数だけ異なった感想がある。同じ本を読んでも相反する意見、解釈、感慨を抱くことはままあるだろうし、それらが果たして作者の意図どおりであるか、そうでないかもあまり重要ではない。読者が本を通して対峙するのは、作者ではなく読者本人である。本の中の登場人物の息遣いは、そこに投影した自己の息遣いである。
私は「ねじまき鳥クロニクル」三部作が村上春樹の長編小説の最高傑作であると思う。これほどの小説を書ける人間はそうそう居ないのと同時に、村上春樹にとってもこれほどの小説を書くことはそうそうないのではないか。恐るべき集中力をもって書き綴られたこの物語は、すべての要素が幸運な必然を以て見事に調和を為す。村上春樹の他の名作―例えば「ノルウェイの森」や「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」―と比較しても、私の意見では、その完成度は際立っている。
戦時に在らずば故郷で良き父であったろう人たちが、異国満州の地で理不尽な殺戮に参加する。そんな多くの人が「損なわれた」時代をかつて日本は経験した。戦争は人々の心の闇に働きかけ、彼らを恐ろしく動物的な(あるいはあまりに人間的な1)行動に走らせた。その闇は日本の風土、民俗、文化に根付いているのだろうか? 村上春樹は現代日本に存在する人々の非文明的な行動、不安、諍い、絶望に、戦時と同根の心の闇を見出す。そして悲しいことに、主人公の妻・クミコが取った「自らを損なう」行動は、もはやいまの我々の目には奇異なものではなくなってしまっている。心の中にある幸せの場所(動物園)を多くの人は見失ってしまっている。
主人公・僕(岡田トオル)はそんな現実に対し、バットを握り締めて立ち向かう。この作品の執筆後、村上春樹は地下鉄サリン事件のルポルタージュの仕事2を恐ろしく精力的に行うことを我々は知っているから、この「僕」の決意は同時に村上春樹の決意なのではと勘繰りたくなる。「デタッチメントからコミットメントへ」3。ここで村上春樹が為した大転換はこう形容されることが多いようだ。
間宮中尉は戦後シベリアへ抑留され、そこで「皮剥ぎボリス」という巨大な悪と再会する。そして間宮中尉は最後の最後まで抗戦する。結局は完膚なきまで敗れてしまうけれども、それでも、多くの人々が「損なわれた」時代にあって、彼だけは誇り高く生きた。間宮中尉は枯れた井戸に水をもたらせなかったけれど、その思いを「僕」に伝えたことが「僕」の勝利を呼ぶ。
本は読んだ人の数だけ異なった感想があるし、ある種の人間はそこからやたらと自分への教訓を得たがる傾向があるかも知れない。私は、この小説に大いに励まされた。むしろ、この小説は村上春樹が我々を励ましているのだ、と積極的に思いたい。そして日本人を代表するかのように世界中で読まれる小説を書き続ける村上春樹を、誇りに思いたい。そうだ、彼のような至宝と同時代に生きられることを、私はとても幸運に思う。
-hiraku-
脚注
1) 「人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的である。」―芥川龍之介「侏儒の言葉」
2) 「アンダーグラウンド」と「約束された場所で」。個人的には後者のほうが断然おもしろかった。
3) 「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」の中での村上の発言が元になってこのキーワードが生まれたという。(AERA Mook「村上春樹がわかる。」)
本ブログ内の関連エントリー:
● 三浦雅士 「村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ」
● 村上春樹・柴田元幸「翻訳夜話」
〈第1部〉泥棒かささぎ編・〈第2部〉予言する鳥編・〈第3部〉鳥刺し男編
本は読んだ人の数だけ異なった感想がある。同じ本を読んでも相反する意見、解釈、感慨を抱くことはままあるだろうし、それらが果たして作者の意図どおりであるか、そうでないかもあまり重要ではない。読者が本を通して対峙するのは、作者ではなく読者本人である。本の中の登場人物の息遣いは、そこに投影した自己の息遣いである。
私は「ねじまき鳥クロニクル」三部作が村上春樹の長編小説の最高傑作であると思う。これほどの小説を書ける人間はそうそう居ないのと同時に、村上春樹にとってもこれほどの小説を書くことはそうそうないのではないか。恐るべき集中力をもって書き綴られたこの物語は、すべての要素が幸運な必然を以て見事に調和を為す。村上春樹の他の名作―例えば「ノルウェイの森」や「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」―と比較しても、私の意見では、その完成度は際立っている。
戦時に在らずば故郷で良き父であったろう人たちが、異国満州の地で理不尽な殺戮に参加する。そんな多くの人が「損なわれた」時代をかつて日本は経験した。戦争は人々の心の闇に働きかけ、彼らを恐ろしく動物的な(あるいはあまりに人間的な1)行動に走らせた。その闇は日本の風土、民俗、文化に根付いているのだろうか? 村上春樹は現代日本に存在する人々の非文明的な行動、不安、諍い、絶望に、戦時と同根の心の闇を見出す。そして悲しいことに、主人公の妻・クミコが取った「自らを損なう」行動は、もはやいまの我々の目には奇異なものではなくなってしまっている。心の中にある幸せの場所(動物園)を多くの人は見失ってしまっている。
主人公・僕(岡田トオル)はそんな現実に対し、バットを握り締めて立ち向かう。この作品の執筆後、村上春樹は地下鉄サリン事件のルポルタージュの仕事2を恐ろしく精力的に行うことを我々は知っているから、この「僕」の決意は同時に村上春樹の決意なのではと勘繰りたくなる。「デタッチメントからコミットメントへ」3。ここで村上春樹が為した大転換はこう形容されることが多いようだ。
それはそこにあるのだ、と僕は思った。それはそこにあって、僕の手が差しのべられるのを待っている。どれだけの時間がかかることになるのかはわからない。どれだけの力が必要とされるのかもわからない。でも僕は踏みとどまらなくてはならない。そしてその世界へ向けて手を伸ばすための手だてを見つけなくてはならない。それが僕のやるべきことなのだ。 (第2部)
間宮中尉は戦後シベリアへ抑留され、そこで「皮剥ぎボリス」という巨大な悪と再会する。そして間宮中尉は最後の最後まで抗戦する。結局は完膚なきまで敗れてしまうけれども、それでも、多くの人々が「損なわれた」時代にあって、彼だけは誇り高く生きた。間宮中尉は枯れた井戸に水をもたらせなかったけれど、その思いを「僕」に伝えたことが「僕」の勝利を呼ぶ。
本は読んだ人の数だけ異なった感想があるし、ある種の人間はそこからやたらと自分への教訓を得たがる傾向があるかも知れない。私は、この小説に大いに励まされた。むしろ、この小説は村上春樹が我々を励ましているのだ、と積極的に思いたい。そして日本人を代表するかのように世界中で読まれる小説を書き続ける村上春樹を、誇りに思いたい。そうだ、彼のような至宝と同時代に生きられることを、私はとても幸運に思う。
-hiraku-
脚注
1) 「人間的な、余りに人間的なものは大抵は確かに動物的である。」―芥川龍之介「侏儒の言葉」
2) 「アンダーグラウンド」と「約束された場所で」。個人的には後者のほうが断然おもしろかった。
3) 「村上春樹、河合隼雄に会いにいく」の中での村上の発言が元になってこのキーワードが生まれたという。(AERA Mook「村上春樹がわかる。」)
本ブログ内の関連エントリー:
● 三浦雅士 「村上春樹と柴田元幸のもうひとつのアメリカ」
● 村上春樹・柴田元幸「翻訳夜話」
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by hiraku_auster
| 2005-07-04 00:19
| 村上春樹・柴田元幸