2005年 10月 10日
ウラジーミル・ナボコフ 「ロリータ」 (1/2)
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ロリータ、わが生命(いのち)のともしび、わが肉のほむら。わが罪、わが魂。ロ、リー、タ。舌のさきが口蓋を三歩すすんで、三歩目に軽く歯にあたる。ロ、リー、タ。
「ロリータ」(ウラジーミル・ナボコフ 著・大久保康雄 訳)新潮文庫
ロシア語と英語の両方で小説を執筆した驚異の作家ナボコフが成功し得たのは、ナボコフ初読者である私が言うのは僭越きわまりないだろうが、その特殊な文体ゆえであったに違いない。細部からさらに細部へと近づいていくその異常なまでに緻密な表現手法は、たとえいくつの言語の壁を越えようとも、じゅうぶんに圧倒的だろうからだ。
例えば、こんな具合である。12歳の少女ドロレス(愛称ロリータ)に異常な性愛を募らせる初老の文学者・ハンバートは、長椅子でロリータが自分の隣に座り、彼女が両足を自分の膝に投げ出したとき内心で狂喜する。この場面はどのくらいの長さだろう? 文庫本で2ページ? 3ページ? 否、この場面はじつに7ページにわたって続く!
私は、自分の肉体の内部にかもし出された歓喜の酒のほかには、この世に何ひとつ気になるもののない境地に参入した。私の体の奥の奥の根もとの、こよなく甘美な膨張として動きはじめたものは、いまは燃えさかるうずきとなって、意識のおよぶ生活のどこにも見いだすことのできない絶対の安定、自信、憑依の状態に到達した。こうして定着し、最後の痙攣に向かって押しすすむ深い熱い快感を味わいつつ、私は、その燃えるよろこびの時間を引きのばすために進行をひきのばすことができそうな気がした。
まったく、ナボコフほどにこの世界を仔細に眺める人間が他にいるとは到底思えない。我々がつぶさに「見ている」と思っていた世界は、ナボコフの手にかかれば、何万倍もの倍率を持つ顕微鏡を通したように、まったく違った姿を見せる。そしてその文体のすばらしさは、彼がこの作品で性倒錯という非倫理的なテーマを用いたからこそ、より鮮明に読者に感ぜられ得るのだと思う。おそらく、読者はハンバートの心象にほとんど同調することはできない。だから読者はハンバートを裁く陪審員となって、彼が正気と狂気のあいだを揺れ動くさまを客観的に観察することとなる。そしてその観察は、ハンバート自身の世界の観察の緻密さに、常に凌駕され圧倒され続けてしまう。
私にとってもっとも圧巻だったのは、小説の終わり近く、ハンバートが最後にロリータと邂逅したあと、ロリータと過ごした日々を、喜びと後悔を同居させて回想するくだりだ。それは恐ろしい言い訳、正当化、こじつけの羅列である。しかしそれがどうしてこんなにも胸を揺さぶるのか。それはおそらく、私自身も、このような言い訳・正当化を内心でいつも、無意識のままに行っているからだ。その事実がハンバートによって曝け出されるのは、あたかも自分自身の弱さがすべて刻まれた臓腑を引き出され、顕微鏡で観察されるがごとくである。ナボコフがここで描くのは、異常心理ではなく、単なるエロティズムでもなく、人間だれもが普通に持つ心理そのものなのだ。読者はハンバートの心象をいかに嫌悪しようとも、やはりその中に自分と同じ「人間」を見い出さざるを得ない。
(次回へつづく)
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by hiraku_auster
| 2005-10-10 08:51
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