2005年 10月 14日
映画「アメリカン・ビューティー」(1/2)
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Ricky: Sometimes there's so much beauty in the world I feel like I can't take it, like my heart's going to cave in.
ときには世界に美があふれすぎていて、僕にはとても受け止めきれない。心が押しつぶされそうになる。
「アメリカン・ビューティー」(American Beauty, 1999・米国)
世界の認識の仕方を変えてしまうような出会いがある。その出会いによって、人は炭坑の奥から解放され、新しい世界の色彩を知る。翼はひとたび灰となって、炎の中で新たな組織へと再生する。この映画との出会いは、そのようなものだった。こんな奇跡が確かに起こりうると私たちは知っているから、本や映画や音楽から離れられないのだ。あるいはいろんな人と話したいし、いろんなところへ行ってみたくなるのだ。
「アメリカン・ビューティー」。映画としてはストーリーが退屈? どこかで見たようなシーンばかり? 役者の演技がオーバーでくどい? 当たり前である。この映画は、シチュエーションコメディなのだから。ケビン・スペイシーが演じるレスターお父さんが夕食で「そこのアスパラガス取って」と言うシーンなんて、何回見ても笑ってしまう。前半はずっと、ストーリーも風景も台詞も演技も、どこかで見たようなマンネリばかり。この映画はかなり執拗に、退屈な紋切り型を踏襲することが目指されている。馬鹿馬鹿しいくらいに。
じつは退屈な紋切り型が続くのは、レスター一家の日常そのものである。だからみんなもう、死にそうなくらい生活に飽き飽きしている。映画の冒頭でレスターは「ある意味ではすでに死んでいる」と告白し、朝のマスターベーションが一日の最高点、なんて言うのだ。私たちの生活自体が、ひょっとするとテレビドラマのマンネリズム以上に退屈かも知れないなんて、ぞっとする。社会からの疎外感も、家庭内の軋轢も、もうお決まりのコメディにしかならない。
バーナム一家(父・レスター、母・キャロリン、娘・ジェーン)の隣に越してきたフィッツ大佐一家の息子リッキーは、どうも少し違って、あまり日常に退屈していない。それどころか、この世界がじつは美しいことを、彼だけが知っている。だからこのリッキー君の登場によって、少しずつみんなの生活が変わってくる。かといって良いほうに変わってめでたしめでたし、ではなく、破滅に向かってまっしぐら、というのがこの映画の一筋縄ではいかないところだ。みなを導く天使のような役割のリッキー君は、影では大麻の売人で、本人も尿をすり替えて検査を逃れていたりする。彼のストーカーっぽい行動の数々は、やっぱりちょっとコワイ。映画が終わっても、果たしてリッキー君がまともな大人になれるのかはわからない。もちろん、わかってしまったらおもしろくない。
レスターの娘ジェーンの高校の友達アンジェラは美貌だが、これまた平凡な日常に飽き飽きしている、生気のない、愚かな少女である。レスターお父さんがリッキー君の感化を受けて自らを偽ることをやめ、アンジェラとの性交を夢みてせっせと精進することで、ドタバタコメディが回転し始める。妻キャロリンも、負けじと眉毛の濃いいおっさんと不倫して、退屈な日常から脱出!である。日常を楽しくするなんてカンタン、自分の気持ちに素直になれ!なんてキャッチコピーが書けそうな、これまたありきたりな展開。―― さて、それだけ?
(次回へ続く)
ときには世界に美があふれすぎていて、僕にはとても受け止めきれない。心が押しつぶされそうになる。
「アメリカン・ビューティー」(American Beauty, 1999・米国)
世界の認識の仕方を変えてしまうような出会いがある。その出会いによって、人は炭坑の奥から解放され、新しい世界の色彩を知る。翼はひとたび灰となって、炎の中で新たな組織へと再生する。この映画との出会いは、そのようなものだった。こんな奇跡が確かに起こりうると私たちは知っているから、本や映画や音楽から離れられないのだ。あるいはいろんな人と話したいし、いろんなところへ行ってみたくなるのだ。
「アメリカン・ビューティー」。映画としてはストーリーが退屈? どこかで見たようなシーンばかり? 役者の演技がオーバーでくどい? 当たり前である。この映画は、シチュエーションコメディなのだから。ケビン・スペイシーが演じるレスターお父さんが夕食で「そこのアスパラガス取って」と言うシーンなんて、何回見ても笑ってしまう。前半はずっと、ストーリーも風景も台詞も演技も、どこかで見たようなマンネリばかり。この映画はかなり執拗に、退屈な紋切り型を踏襲することが目指されている。馬鹿馬鹿しいくらいに。
じつは退屈な紋切り型が続くのは、レスター一家の日常そのものである。だからみんなもう、死にそうなくらい生活に飽き飽きしている。映画の冒頭でレスターは「ある意味ではすでに死んでいる」と告白し、朝のマスターベーションが一日の最高点、なんて言うのだ。私たちの生活自体が、ひょっとするとテレビドラマのマンネリズム以上に退屈かも知れないなんて、ぞっとする。社会からの疎外感も、家庭内の軋轢も、もうお決まりのコメディにしかならない。
バーナム一家(父・レスター、母・キャロリン、娘・ジェーン)の隣に越してきたフィッツ大佐一家の息子リッキーは、どうも少し違って、あまり日常に退屈していない。それどころか、この世界がじつは美しいことを、彼だけが知っている。だからこのリッキー君の登場によって、少しずつみんなの生活が変わってくる。かといって良いほうに変わってめでたしめでたし、ではなく、破滅に向かってまっしぐら、というのがこの映画の一筋縄ではいかないところだ。みなを導く天使のような役割のリッキー君は、影では大麻の売人で、本人も尿をすり替えて検査を逃れていたりする。彼のストーカーっぽい行動の数々は、やっぱりちょっとコワイ。映画が終わっても、果たしてリッキー君がまともな大人になれるのかはわからない。もちろん、わかってしまったらおもしろくない。
レスターの娘ジェーンの高校の友達アンジェラは美貌だが、これまた平凡な日常に飽き飽きしている、生気のない、愚かな少女である。レスターお父さんがリッキー君の感化を受けて自らを偽ることをやめ、アンジェラとの性交を夢みてせっせと精進することで、ドタバタコメディが回転し始める。妻キャロリンも、負けじと眉毛の濃いいおっさんと不倫して、退屈な日常から脱出!である。日常を楽しくするなんてカンタン、自分の気持ちに素直になれ!なんてキャッチコピーが書けそうな、これまたありきたりな展開。―― さて、それだけ?
(次回へ続く)
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by hiraku_auster
| 2005-10-14 19:48
| 映画