2006年 02月 11日
小川洋子「博士の愛した数式」
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小川洋子「博士の愛した数式」(新潮文庫)
この小説全編にわたって、なんだかとても良い香りがただよっている。母親が準備する食事の匂い。暑い夏の日の風の匂い。窓から入ってくる雨の匂い。そのほか懐かしい音もたくさん聴こえる。古いラジオから流れる野球中継。初めて行く歯医者の不安を駆り立てる音。野球場のざわつき。やかましい蝉の声。遠くの雷鳴。そして母親が料理をする包丁の音。それらは僕らのかけがえのない子供時代の原風景だ。博士はいまは記憶が80分しか持たないかも知れないけれど、若いときの記憶は残っていて、自分が子供だったときの風景を忘れていない。だからぜんぜん不幸じゃないし、だからこそルート君にも幸せな原風景を与えようと奔走する。読者も自分が子供だったことを憶えていれば、この本を読んだあとにはきっと、みんなに優しくしようって気持ちになると思った。
読み始めはとても不安だった。何しろ、数学の元教授という「博士」の設定が、あまりに偏見に満ちた、ステレオタイプの科学者像だったからだ。白黒映画から抜け出たマッドサイエンティスト。ましてや彼の記憶はきっちり80分しか持たないから主人公の家政婦さん(女手一つで息子を育てるシングルマザー)がはらはらするなんて設定は、すごく作り物っぽくて、最初はかなり違和感を感じた。大丈夫かな、と思って読み進めると、うれしい予想違いが待っていた。
数学を心から愛する博士は、数の美しい世界へ家政婦さんとその息子ルート君をいざなう。博士はすごく褒め上手で、相手の小さな発見を手放しで賞賛する。また無類の子供好きで、子供のためには何もかも投げ打って走り回る。そんな博士のそばに居て、家政婦さんは数学に魅了されてこの世界の秩序の美しさを知るし、ルート君はすくすく育って母の至らなさを諭しさえする。そこに阪神タイガースと江夏豊と野球カードの物語が入り混じって、若き日の博士の恋愛模様のナゾも加わって、ワーって盛り上がっていくから、気づいたら設定の作り物っぽさなんて考えてもいなかった。作者の小川洋子さんの力業に脱帽である。本を閉じたあとも、幸せな気持ちでニコニコほほ笑んでしまいました。すてきな本をありがとう。
-hiraku-
付記: 本作品は寺尾聰主演で映画化され、公開中だそうですね。どんな出来なのか気になります。
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by hiraku_auster
| 2006-02-11 00:03
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