2006年 03月 04日
ポール・オースター「リヴァイアサン」(1/2)
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自分が信じることをはっきり示して、うまくすれば、いままでの僕にはできなかったような変化を世に生じさせることができるんだ。 … 僕は統一原理を見出したのであって、このひとつの理念が、僕という人間の、ばらばらに壊れた断片をまとめ上げてくれるにちがいない。生まれてはじめて、僕は十全な存在になれると思った。
ポール・オースター『リヴァイアサン』(新潮文庫)柴田元幸・訳
全米各地にある「自由の女神」のレプリカ像がつぎつぎと爆破される奇妙なテロ事件が起きる。新聞社に小洒落た犯行声明を送りつける犯人「自由の怪人」の正体を、作家ピーター・エアロンは知っていた。犯人はピーターの無二の親友で、かつてすばらしい小説を書き上げたことのある元作家、ベンジャミン・サックスである。本作品は、FBIがサックスの正体を突き止めるまでのあいだに真実を残しておきたいと願うピーターが必死で書いた記録、という体裁を取っている。
サックスとは、ピーターに欠けた部分の具現である。文章ひとつを書くにしても、ピーターは腹ばいで進むように鈍重で、しかも自分の言葉にいまいち確信を持つことができない。いっぽうのサックスは空気から取り出すような手軽さで言葉を書き付けることができる。離婚経験のあるピーターに対し、サックスはピーターが学生時代に憧れていた女性を妻にしていて、良好な関係を築いている。ピーターはサックスの軽妙さに憧憬し、嫉妬する。あるいはサックスこそは自分の欠けた部分を補い、自らを完結させてくれると感じている様子である。
しかしサックスは天才であるがゆえ、孤独である。ピーターが混沌の中からじわじわと実績を積み上げ、基盤を築いていくのに対して、やすやすと高みまで上昇したサックスは、そこから瞬く間に墜落する。落下した先は、かつてサックスが孤独を感じ、あるいはピーターがいまだもがき続ける混沌たる世界からは無縁なほどに美しい、簡潔な世界であった。そこでサックスは「十全な存在」となる。
二人の主要な登場人物の相互関係は『鍵のかかった部屋』1と酷似しているが、彼らを取り巻く環境はまるで違っている。『鍵のかかった部屋』は登場人物が少なく、主人公と、主人公ではないもう片方(それを他者と呼ぶかは読者次第である)の関係は実験室内のように純粋な双方向である。2 ところが『リヴァイアサン』では、二人はこれ以上ないというほどの混乱の中にある。つぎつぎと登場する個性的な人物たちは、相互に絡み合い、ある人物の行動はまわりまわって思わぬ人物の人生に影響する。そこには確固たる運命、真実など存在しない。あるものといえば、偶然と皮肉だけだ。
(次回へつづく)
脚注:
1) 『鍵のかかった部屋』はポール・オースターの初期の中篇小説。1986年に発表された。ニューヨーク三部作と呼ばれる中篇三連作(『シティ・オブ・グラス』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』)の最後を飾る。
2) なお『鍵のかかった部屋』において、失踪した作家ファンショーの実子で後に主人公「僕」の養子となる幼児の名前が「ベン」であり、『リヴァイアサン』の「ベンジャミン・サックス」と符合するのは、おそらく偶然ではないだろう。
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ポール・オースター『リヴァイアサン』(新潮文庫)柴田元幸・訳
全米各地にある「自由の女神」のレプリカ像がつぎつぎと爆破される奇妙なテロ事件が起きる。新聞社に小洒落た犯行声明を送りつける犯人「自由の怪人」の正体を、作家ピーター・エアロンは知っていた。犯人はピーターの無二の親友で、かつてすばらしい小説を書き上げたことのある元作家、ベンジャミン・サックスである。本作品は、FBIがサックスの正体を突き止めるまでのあいだに真実を残しておきたいと願うピーターが必死で書いた記録、という体裁を取っている。
サックスとは、ピーターに欠けた部分の具現である。文章ひとつを書くにしても、ピーターは腹ばいで進むように鈍重で、しかも自分の言葉にいまいち確信を持つことができない。いっぽうのサックスは空気から取り出すような手軽さで言葉を書き付けることができる。離婚経験のあるピーターに対し、サックスはピーターが学生時代に憧れていた女性を妻にしていて、良好な関係を築いている。ピーターはサックスの軽妙さに憧憬し、嫉妬する。あるいはサックスこそは自分の欠けた部分を補い、自らを完結させてくれると感じている様子である。
しかしサックスは天才であるがゆえ、孤独である。ピーターが混沌の中からじわじわと実績を積み上げ、基盤を築いていくのに対して、やすやすと高みまで上昇したサックスは、そこから瞬く間に墜落する。落下した先は、かつてサックスが孤独を感じ、あるいはピーターがいまだもがき続ける混沌たる世界からは無縁なほどに美しい、簡潔な世界であった。そこでサックスは「十全な存在」となる。
二人の主要な登場人物の相互関係は『鍵のかかった部屋』1と酷似しているが、彼らを取り巻く環境はまるで違っている。『鍵のかかった部屋』は登場人物が少なく、主人公と、主人公ではないもう片方(それを他者と呼ぶかは読者次第である)の関係は実験室内のように純粋な双方向である。2 ところが『リヴァイアサン』では、二人はこれ以上ないというほどの混乱の中にある。つぎつぎと登場する個性的な人物たちは、相互に絡み合い、ある人物の行動はまわりまわって思わぬ人物の人生に影響する。そこには確固たる運命、真実など存在しない。あるものといえば、偶然と皮肉だけだ。
(次回へつづく)
脚注:
1) 『鍵のかかった部屋』はポール・オースターの初期の中篇小説。1986年に発表された。ニューヨーク三部作と呼ばれる中篇三連作(『シティ・オブ・グラス』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』)の最後を飾る。
2) なお『鍵のかかった部屋』において、失踪した作家ファンショーの実子で後に主人公「僕」の養子となる幼児の名前が「ベン」であり、『リヴァイアサン』の「ベンジャミン・サックス」と符合するのは、おそらく偶然ではないだろう。
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by hiraku_auster
| 2006-03-04 11:05
| ポール・オースター