2006年 03月 18日
ポール・オースター「鍵のかかった部屋」
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鍵のかかった部屋のドア、それだけだった。ファンショーは一人でその中にいて、神秘的な孤独に耐えている。おそらくは生きていて、おそらくは息をしていて、神のみぞ知る夢を夢みている。いまや僕は理解した。この部屋が僕の頭蓋骨の内側にあるのだということを。
ポール・オースター著 『鍵のかかった部屋』(白水社Uブックス) 柴田元幸・訳1
主人公「僕」とファンショーは幼なじみで、同じ学校に行き同じクラスに居たけれども、「僕」にとって彼はどこか遠い存在だった。ファンショーは勉強にスポーツ、何をやらせてもできるし、人間的魅力も不足ない。そして何よりファンショーは、「僕」の理解を超えた、深遠なる内面世界を持っていた。彼が小説家に、それも優れた小説家になることは、「僕」には既定の事実とも思えた。ファンショーを英雄と崇める「僕」も、一時は小説家を目指す。しかしそんなものにはなれない、といつしか気づかされるのだった。「一冊の本を書き上げるためのものを僕は自分の中に持っていないのだ。」
評論などの雑文を書き、世間では「新進気鋭の評論家」と持て囃されるようになった「僕」だが、自分の書く文章の薄っぺらさを、自分では痛いほど感じていた。高校の卒業以来ファンショーと連絡を取っていなかった「僕」は、ある日、ファンショーの妻ソフィーから、突然の手紙を受け取る。ファンショーは失踪した。彼の残した原稿の扱いを、「僕」に託したいと言うのだ。ソフィーの美しさに魅せられた「僕」は、彼女に求婚し、彼女はそれを受け入れる。ファンショーが残した小説・戯曲はどれも傑作で、「僕」はそこから経済的余裕も得る。やがて思いがけずファンショーの伝記を書くことになった「僕」は、彼の軌跡を追い続ける中で、次第に自分とファンショーとの境界が消えていくのを感じる2。「僕」は確信するに至る。自分はファンショーを捜し出して殺したいのだ、と。
ファンショーを追ってフランスまで来た「僕」は、死の世界のすぐそばまで来る。ファンショーとは、なにより死の象徴である。ファンショーが持つ強烈な創造力は、高潔な倫理観は、彼が死の味を知り、一種の諦念のなかで生きていたからに他ならない。自分の子供が生まれる直前に彼が失踪したのは、彼が死の世界に属する者であるからだ。「僕」はファンショーの世界まで降りていき、ファンショーと共に自分が消えていくのを見、そして――危ないところでなんとか生きて帰って来る。光あふれる暖かい世界へ。愛するソフィーのもとへ。ファンショーの子・ベンと、「僕」の子・ポールが待つ、この世界へ。
なぜなら、この物語全体が、結末において起ったことに収斂しているからだ。その結末がもしも僕の内側に残っていなかったら、僕はこの本を書きはじめることもできなかっただろう。『ガラスの街』 3、『幽霊たち』、そしてこの本、三つの物語は究極的にはみな同じ物語なのだ。ただそれぞれが、僕が徐々に状況を把握していく過程におけるそれぞれの段階の産物なのだ。
いまや「僕」は自分の頭蓋の中のファンショーと対峙できるまでになった。鍵のかかった部屋で待つファンショーと、「僕」は、閉ざされた扉を挟んで会話をする。ファンショーはもう遠い憧れの存在ではなくなった。違う世界に住む天才でも、嫉妬に狂って殺したいと思う相手でもない。それは自分の頭の中にある、自分の死を司る部分だ。「僕」は、そしてたぶんオースターは、自己の内面の奥底へつながる深い井戸を降りていき、そこで何かと自分を融合させた。正直なところ、オースターの『ガラスの街』『幽霊たち』『鍵のかかった部屋』三部作が、それほど創造性の高い作品群であると私は思わない。どこかで見たことのある小説、借り物の体裁だ4。しかしこれ以後のオースター作品は違う。どんどんオースター独自の小説世界が繰り広げられていく。オースターにそれが可能となったのは、この『鍵のかかった部屋』において、ファンショーの世界から彼がぶじに戻って来たからではないだろうか。自分の中に深くえぐられた井戸の奥底で、彼は確かに何かを見てきた。ニューヨーク三部作とは、オースターという天才作家の、誕生の記録なのだと思う。
-hiraku-
脚注:
1) 『鍵のかかった部屋』の原書The Locked Roomは、1986年に出版された。先に出版されていたCity of GlassとGhostsと合わせ、「ニューヨーク三部作」と呼ばれている。いまではこの三作が一冊にまとまったペーパーバック版が、Penguin社とFaber and Faber社より出ている。私のオースターHPに柴田元幸氏がコメントをくださったとき、柴田氏は「訳者が言うのもナニですが、オースターの英語は語学的には大変易しいので、ぜひ原書で読んでみられることをお勧めします。特に『ニューヨーク三部作』が一冊にまとまった The New York Trilogy はお買い得です」と書いていらっしゃる。日本では版権の事情から、City of Glassが『シティ・オブ・グラス』の邦題で山本楡美子・郷原宏訳により角川書店から、Ghostsは『幽霊たち』の邦題で柴田訳により新潮社から、そしてこのThe Locked Roomは白水社から、とそれぞればらばらの出版となってしまった。英語版のように、日本の読者も一冊で読める状態になって欲しいものである。
2) ファンショーは大学を中退後、雑多な仕事をやり、石油タンカーの乗組員としてフランスへ渡ったりする。これはオースター自身の履歴を彷彿とさせる。また、ファンショーには病弱な妹がいるという設定だが、これもオースターの家族構成と合致する(『孤独の発明』(新潮文庫)参照)。だからといってこの小説が自伝的であるというわけではなく、オースターはフィクションの中に現実を部分的に挿入することで、不思議な異空間を作り上げている。
3) 翻訳の柴田元幸氏は本作中、NY三部作の一作目City of Glassを『ガラスの街』と呼んでいる。角川文庫から出版されている山本楡美子・郷原宏訳による題名は、『シティ・オブ・グラス』。その文庫版あとがきには、あたかも柴田氏に対する返答であるかのように、「邦題を『ガラスの街』にしなかったのは~」と理由が語られていて、なんだか可笑しい。日本のオースターファンの多くは、柴田氏の新訳による『ガラスの街』出版を望んでいるのではないだろうか。
4) もちろん紋切り型の枠組みを使用しての創造、というものがあり、このNY三部作はその部類の属するのだと思う。三作ともにミステリー(探偵もの)の枠組みが借りられている。私のお気に入りの映画『アメリカン・ビューティー』などは、紋切り型を敢えて繰り返す中から新しい表現を生み出しており、オースターのNY三部作での試みと、共通項を感じる。
付記: ここまでの4つのブログの記事、「オースター『偶然の音楽』」、「オースター『リヴァイアサン』」、「映画『アマデウス』」、そしてこの「オースター『鍵のかかった部屋』」は、同時期に構想・執筆しました。セットで読んでいただけるとたいへんうれしいです。まとまった長さの日本語を久しぶりに書くことができて、私自身は非常にハッピーなのでした。
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by hiraku_auster
| 2006-03-18 00:39
| ポール・オースター