2006年 06月 26日
ポール・オースター「空腹の技法」(1/2)
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空腹が作り出した闇を彼はのぞき込む。そこに見出されるのは、言語の虚無だ。現実はいまや彼にとって、物のない名たちと、名のない物たちから成る混沌と化している。自己と世界とのあいだの絆は、いまや断ち切られてしまっている。
―「空腹の芸術」
ポール・オースター『空腹の技法』 (新潮文庫) 柴田元幸/畔柳和代・共訳1
オースターは書く、書くことが生きることだから。自分がこの星に生れ落ち、いまなお生を営んでいることの意味を、一つ一つ確認していく作業が「書く」ということであるから。意味を見出さなくては、生きていることと死んでいることの境界を見失ってしまうから。ふっと消え去りたくなったとき、自分をここに繋ぎ止めるものが確かにあると信じたいから。
本書の前半は、オースターが作家になる前に詩人だった時代、1970年代に書かれた評論集だ2。クヌット・ハムスン、ローラ・ライディング、ルイ・ウルムソン、チャールズ・レズニコフ、ジョン・アシュベリー、ジョージ・オッペン…、私には見慣れない名前が並ぶ。それでもそんなことは関係なく、私はすごく楽しんで読んだ。なぜなら、ここにあるすべての文章は、対象となる詩/小説の単なる批評にとどまらず、その作品を感受するところのオースター自身について書かれているからだ。たんなる批評ではなく、評論の対象に啓発されて書かれた創作文なのである。そしてこの本ほどオースターの内面に肉薄できる書物は他にはない、と感じた。オースターがこんなにも強く自己を曝しているのは、これらの文章を書いたときの彼が、まだひどく若かったからだろう。オースター自身、自分が何者であるかを知らず、自らが何を書いているのかを完全には把握しておらず、ただ暗闇を手探りで進みながら文章を書き付けたのだ。
自分に取り憑くオブセッションを人は自分で見ることができないから、自分と共鳴する他人の音叉を探すことで、はじめて自らの波長を知る。そしてその共鳴を言葉することで、自分自身の姿をより鮮明にできる。私たちがこの本に見るのは、オースターがこうした過程で自分への確信を得ていく姿だ。後知恵で見れば、この修行段階を経たからこそ彼は比類なき小説家となることができた。また、この時期のオースターが、フランス語の英訳に力を入れていたことも興味深い事実である3。国分寺でジャズ喫茶のマスターをしていた村上春樹は、オースターとほぼ同時期に、アメリカ文学を日本語に訳し、あるいは英語で小説を創作してそれを和訳する、という実験を繰り返していた。オースターと村上は、共通するこの多言語的遊戯を通じて、自己と世界との絆を築いたかに見える。
書くという行為は、したがって、現実を秩序づける営みというよりはむしろ、現実を発見する営みだ。そのプロセスによって、人は物と、物の名とのあいだにわが身を置く。それは、そうした音なき間隙に在って見張りに立つすべであり、物が見られることを ― あたかもはじめて見られるかのように見られることを ― 可能にし、それにつづいて物に名が与えられることを可能にするすべだ。 ―「決定的瞬間」(チャールズ・レズニコフの詩に関するエッセイ)(後半へ続く)
脚注:
1) 単行本が文庫化されるにあたって、三つのエッセイが新たに加えられているので、これから本書を読む方は、文庫本のほうがお買い得である。この『空腹の技巧』文庫版と、『トゥルー・ストーリーズ』が出版されたことで、オースターのエッセイに関しては、本場の英語圏よりむしろ日本でのほうがまとめて読みやすい、恵まれた環境となった。
2) 本書は三部構成で、第一部は評論集、第二部はオースターが他作家の本のために書いた序文集、第三部はインタビュー集。雑文集であるが、どの文章もかなり高い質を保っていると思う。オースターはフランツ・カフカを「カフカは生まれながらの書き手であり、下手なセンテンスを書くことや自分をぎこちなく表現したりすることが本来的にできない人物だった」と評しているが、この評もまた、他の評論と同じく、オースター自身の理想を書いたものなのだろう。
3) 余談だが、オースターの娘ソフィー・オースターが歌手デビューして、父親が英訳したフランス詩を歌ったりしている。オースターのエッセイにたびたび登場するソフィーの歌声を聴くというのは、不思議な体験である。まるで物語世界から出てきた架空の人間のようだ。http://www.sophieauster.com/
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by hiraku_auster
| 2006-06-26 03:26
| ポール・オースター