2005年 08月 02日
遊◎機械プロデュース演劇「ムーンパレス」鑑賞記:「偶然の音楽」舞台化記念!
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ポール・オースターの長編小説「ムーン・パレス」を2001年に舞台化した遊機械のみなさんが、こんどは2005年10月31日から11月20日にかけて世田谷パブリックシアターにて「偶然の音楽」(同名のポール・オースターの長編小説が原作)を上演予定だと、スタッフの方よりメールをいただきました! 前回と同じく、白井晃さんが演出されるそうです。9月末には前売りが開始されるそうですので、また日が近くなったら私のオースターHPにも詳しい案内を載せさせていただきます。
「偶然の音楽」舞台化を記念して(?)2001年の舞台「ムーン・パレス」初日を鑑賞した直後に書いた文章を以下に再録します。
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遊◎機械プロデュース 演劇「ムーンパレス」
2001年6月21日~7月1日 新国立劇場 小劇場
鑑賞記 by -hiraku-
時は2001年6月21日木曜日の午後6時半、私は京王新線初台駅を出て新国立劇場小劇場に入る。遊◎機械プロデュースによる舞台「ムーンパレス」の初日。入り口にはいくつか花が飾られている。著名な劇作家、三谷幸喜氏から演出の白井晃氏へ贈られた花もある。劇場の中はいっぷう変わっている。舞台は観客席に向かって縦に細長く伸び、席がその周りを取り囲んでいる。ある客は舞台を横から見、ある客は前から見、そしてバルコニー席では上から見る。舞台に立った役者は、後ろを除いて、あらゆる角度から視線に曝されることになる。開演までは場内には薄暗い照明が点灯している。舞台上に向かって、天井から幾つものライトが細い筋を作っている。せり出した舞台の後方は暗くてよく見えない。舞台中央には穴が空いていて、おそらくは役者が下方より階段を登って登場することができるのだろう。6時半過ぎにはまだまばらだった観客席も、7時に開演ブザーが鳴るころにはほぼ満席になっている。開演日に特別観客が集中することはあるのだろうか? あまり演劇に通ったことのない私には知るすべがない。開演ブザーのあと、真っ暗闇の中、長い沈黙がある。遠くからアポロ11号の地球との通信が聞こえてくる。舞台後方のスクリーンに、月面着陸の様子が映し出される。そしてゆっくりと舞台の中央がスポットライトで照らされる。そこには一人の青年が立っている。彼が、我らがマーコ・フォッグに違いない。
ポール・オースターの小説「ムーン・パレス」が舞台化されると聞いたとき、感じた気持ちをどう表現すれば良いだろう? 驚愕? 当惑? そうだ、確かに私は当惑した。なぜならそれは私にとって全く思いも寄らない発想だったからだ。「ムーン・パレス」を舞台化する! 「ニューヨーク3部作」なら理解できる。すでに映画化された「スモーク」や「ルル・オン・ザ・ブリッジ」ならば当然の展開とも言えるだろう。しかし、「あの」「ムーン・パレス」なのだ。まさかこの作品が舞台化されるなんて思いも寄らなかったし、それも偶然にも私の住む日本で、そして私もテレビを通して知る役者でもある白井晃氏の演出だというのだ。しばらく私の頭は混乱した。でも、見に行こう、という気になったとき、冷静にそれがどんな舞台になるのかを想像してみた。いや、想像してみようと試みた。しかしそれはまったくの失敗に終った。私はあまりに原作の世界に没入しすぎていて、小説以外の媒体にその世界を引っ張り出してくるなんてことは到底できなくなってしまっていた。もう頭をからっぽにして見に行くしかない、そう考えた。変な先入観を持って見に行けば、原作とのギャップに失望するに決まっている。小説は小説、舞台は舞台。まったく異なる表現方法だ。何度も読み返せる小説とは違って、音楽と同じようにその場に生じては消えていくはかない芸術を、頭の中に表出するのではなく実際の三次元空間に成形され、五感のすべてを刺激してくれる創作物を、その時間を、空間を、思う存分楽しもう。そう腹を決めて、私は新国立劇場に乗り込んだ。
もちろん小説と舞台はまったく違った。細かい筋が違ったとか、人物の描き方が違ったとか、それはもちろん違ったが、そういうことを言っているのではない。それどころか、筋は驚くくらい原作に忠実だった。私が気づいた意図的な筋の改変点はわずか一点だけ(マーコがキティのアパートを訪れる)で、原作にはない会話もほんの数カ所しか挿入されていなかった。それでもやはり何もかもが違った。そこにはひとつの別個の作品、舞台「ムーンパレス」があった。まず、音楽があった。澄んだピアノの旋律が全編に渡って印象的に用いられていた。ビクター伯父さんの演奏するジャズもよかった。効果的な舞台転換もあった。役者は舞台中央の穴から階段を用いたり、長く伸びた舞台の奥手から登場したり消えたりして、とても良いテンポを作り上げていた。小道具の出し入れも進行の中でスムーズに行われていた。照明の使い方も印象的だった。そして、なんと言っても役者たちの演じる人物は、みな愛すべき人物だった。おなじみの人物たちが大きな声で話し、動き回るのを見るのは爽快だった。特に主人公のマーコを演じた遠藤雅氏は存分にその役割を果たしていた。キティも、ビクター伯父さんも、エフィングも、ソロモンも、みな素敵な人物だった。
でもやはり、舞台で一番生きていたのは「言葉」だった。オースターが記し、柴田元幸氏が訳した絶妙の言葉たち。そう、あれは実は詩の朗読会だったんだ、と言われても私は反対はしない。小説「ムーン・パレス」から抽出された言葉を効果的に響かせるために、他の要素(役者たち、音楽、照明…)はあるに過ぎない。それほどにオースターの、柴田氏の、言葉は力にあふれている。そして舞台を作り上げる人たちの、その言葉に対する尊敬の念が強く伝わってくる。本当に大切に大切に言葉を扱ってくれている。私は小説「ムーン・パレス」ファンを代表して、演出の白井氏をはじめとする舞台製作の皆さんに感謝したい。こんなにあの小説の言葉を大切に扱ってくれて、本当にありがとう、と。それが何より嬉しかった。
私が知りたいのは、私以外の観客がこの舞台をどう感じたかだ。私は客観を装うにはあまりにオースターにはまりすぎている。そうではない他の人たちが、この舞台をどう評価するのか、非常に興味のあるところである。いささかプロットを追いすぎてディティールを廃しすぎていたかも知れない。何しろ原作は文庫本で400ページ以上あるのに、それとまったく同じストーリーを2時間で描いたのだ。特に冒頭の、マーコが路頭をさまようシーンでは、なぜマーコ自身がそういう選択をすることになったかが観客に伝わったか心配だ。しかしそれはしょうがない。モノローグばかりの舞台にするよりも、テンポよくマーコの経験を描くことを重視したのだろうから。
いずれにせよ、劇場で過ごした2時間はとても有意義なものだった。公演は6月21日から7月1日まで。ぜひ再演をしていただいて、より多くの人に見ていただきたいと思う。
-hiraku- (Jun. 22 / 2001)
後日談: 6月25日深夜、なんと、遊機械主催者の白井晃氏より、すごくご丁寧なお礼のメールをいただきました。しかも、上の私の「鑑賞記」を印刷して、楽屋の壁に張ってくださったと言うのです!!! 曰く、「出演者、スタッフ一堂大変喜んでおります」と…。いやはや、なんと恐縮な…。
関連リンク:
● 遊◎機械/全自動シアター
● -hiraku-による小説「ムーン・パレス」の紹介文
「偶然の音楽」舞台化を記念して(?)2001年の舞台「ムーン・パレス」初日を鑑賞した直後に書いた文章を以下に再録します。
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2001年6月21日~7月1日 新国立劇場 小劇場
鑑賞記 by -hiraku-
時は2001年6月21日木曜日の午後6時半、私は京王新線初台駅を出て新国立劇場小劇場に入る。遊◎機械プロデュースによる舞台「ムーンパレス」の初日。入り口にはいくつか花が飾られている。著名な劇作家、三谷幸喜氏から演出の白井晃氏へ贈られた花もある。劇場の中はいっぷう変わっている。舞台は観客席に向かって縦に細長く伸び、席がその周りを取り囲んでいる。ある客は舞台を横から見、ある客は前から見、そしてバルコニー席では上から見る。舞台に立った役者は、後ろを除いて、あらゆる角度から視線に曝されることになる。開演までは場内には薄暗い照明が点灯している。舞台上に向かって、天井から幾つものライトが細い筋を作っている。せり出した舞台の後方は暗くてよく見えない。舞台中央には穴が空いていて、おそらくは役者が下方より階段を登って登場することができるのだろう。6時半過ぎにはまだまばらだった観客席も、7時に開演ブザーが鳴るころにはほぼ満席になっている。開演日に特別観客が集中することはあるのだろうか? あまり演劇に通ったことのない私には知るすべがない。開演ブザーのあと、真っ暗闇の中、長い沈黙がある。遠くからアポロ11号の地球との通信が聞こえてくる。舞台後方のスクリーンに、月面着陸の様子が映し出される。そしてゆっくりと舞台の中央がスポットライトで照らされる。そこには一人の青年が立っている。彼が、我らがマーコ・フォッグに違いない。
ポール・オースターの小説「ムーン・パレス」が舞台化されると聞いたとき、感じた気持ちをどう表現すれば良いだろう? 驚愕? 当惑? そうだ、確かに私は当惑した。なぜならそれは私にとって全く思いも寄らない発想だったからだ。「ムーン・パレス」を舞台化する! 「ニューヨーク3部作」なら理解できる。すでに映画化された「スモーク」や「ルル・オン・ザ・ブリッジ」ならば当然の展開とも言えるだろう。しかし、「あの」「ムーン・パレス」なのだ。まさかこの作品が舞台化されるなんて思いも寄らなかったし、それも偶然にも私の住む日本で、そして私もテレビを通して知る役者でもある白井晃氏の演出だというのだ。しばらく私の頭は混乱した。でも、見に行こう、という気になったとき、冷静にそれがどんな舞台になるのかを想像してみた。いや、想像してみようと試みた。しかしそれはまったくの失敗に終った。私はあまりに原作の世界に没入しすぎていて、小説以外の媒体にその世界を引っ張り出してくるなんてことは到底できなくなってしまっていた。もう頭をからっぽにして見に行くしかない、そう考えた。変な先入観を持って見に行けば、原作とのギャップに失望するに決まっている。小説は小説、舞台は舞台。まったく異なる表現方法だ。何度も読み返せる小説とは違って、音楽と同じようにその場に生じては消えていくはかない芸術を、頭の中に表出するのではなく実際の三次元空間に成形され、五感のすべてを刺激してくれる創作物を、その時間を、空間を、思う存分楽しもう。そう腹を決めて、私は新国立劇場に乗り込んだ。
もちろん小説と舞台はまったく違った。細かい筋が違ったとか、人物の描き方が違ったとか、それはもちろん違ったが、そういうことを言っているのではない。それどころか、筋は驚くくらい原作に忠実だった。私が気づいた意図的な筋の改変点はわずか一点だけ(マーコがキティのアパートを訪れる)で、原作にはない会話もほんの数カ所しか挿入されていなかった。それでもやはり何もかもが違った。そこにはひとつの別個の作品、舞台「ムーンパレス」があった。まず、音楽があった。澄んだピアノの旋律が全編に渡って印象的に用いられていた。ビクター伯父さんの演奏するジャズもよかった。効果的な舞台転換もあった。役者は舞台中央の穴から階段を用いたり、長く伸びた舞台の奥手から登場したり消えたりして、とても良いテンポを作り上げていた。小道具の出し入れも進行の中でスムーズに行われていた。照明の使い方も印象的だった。そして、なんと言っても役者たちの演じる人物は、みな愛すべき人物だった。おなじみの人物たちが大きな声で話し、動き回るのを見るのは爽快だった。特に主人公のマーコを演じた遠藤雅氏は存分にその役割を果たしていた。キティも、ビクター伯父さんも、エフィングも、ソロモンも、みな素敵な人物だった。
でもやはり、舞台で一番生きていたのは「言葉」だった。オースターが記し、柴田元幸氏が訳した絶妙の言葉たち。そう、あれは実は詩の朗読会だったんだ、と言われても私は反対はしない。小説「ムーン・パレス」から抽出された言葉を効果的に響かせるために、他の要素(役者たち、音楽、照明…)はあるに過ぎない。それほどにオースターの、柴田氏の、言葉は力にあふれている。そして舞台を作り上げる人たちの、その言葉に対する尊敬の念が強く伝わってくる。本当に大切に大切に言葉を扱ってくれている。私は小説「ムーン・パレス」ファンを代表して、演出の白井氏をはじめとする舞台製作の皆さんに感謝したい。こんなにあの小説の言葉を大切に扱ってくれて、本当にありがとう、と。それが何より嬉しかった。
私が知りたいのは、私以外の観客がこの舞台をどう感じたかだ。私は客観を装うにはあまりにオースターにはまりすぎている。そうではない他の人たちが、この舞台をどう評価するのか、非常に興味のあるところである。いささかプロットを追いすぎてディティールを廃しすぎていたかも知れない。何しろ原作は文庫本で400ページ以上あるのに、それとまったく同じストーリーを2時間で描いたのだ。特に冒頭の、マーコが路頭をさまようシーンでは、なぜマーコ自身がそういう選択をすることになったかが観客に伝わったか心配だ。しかしそれはしょうがない。モノローグばかりの舞台にするよりも、テンポよくマーコの経験を描くことを重視したのだろうから。
いずれにせよ、劇場で過ごした2時間はとても有意義なものだった。公演は6月21日から7月1日まで。ぜひ再演をしていただいて、より多くの人に見ていただきたいと思う。
-hiraku- (Jun. 22 / 2001)
後日談: 6月25日深夜、なんと、遊機械主催者の白井晃氏より、すごくご丁寧なお礼のメールをいただきました。しかも、上の私の「鑑賞記」を印刷して、楽屋の壁に張ってくださったと言うのです!!! 曰く、「出演者、スタッフ一堂大変喜んでおります」と…。いやはや、なんと恐縮な…。
関連リンク:
● 遊◎機械/全自動シアター
● -hiraku-による小説「ムーン・パレス」の紹介文
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by hiraku_auster
| 2005-08-02 23:13
| ポール・オースター